天保6年捨て人一件

天保六年 捨て人一件 

釈迦塚町には、口の聞けない年寄りが俵に詰めて捨てられていた、という話しがあります。それ実話でした。記録が釈迦塚町所蔵文書の中にあります。

天保の飢饉は、文政十一年(三条地震)同十二年(風水害)同十三年(虫害)天保四年(天候不順による大凶作)この年は夏に綿入れを着ると言われた冷夏でした。のちに天保の大飢饉言われた時代です。村々は飢饉に苦しんでいました。たった一人の老人と言えども養うことは難しく、地境を理由に、老人を引き取らないで済むようにいろいろ画策したのでした。

1835(天保6)年6月13日、坂井新田から釈迦塚新田へ釈迦塚新田飛地に行き倒れ人がいると通報がありました。釈迦塚新田では直ぐ村役人を派遣して調べたところ、釈迦塚新田飛地用水路、字水下江(現小古瀬江)江丸の茨の株元に、年令六十余りの男が俵に入れられ、中一ケ所縄で結び、首だけ出して、笠を覆って捨てられていました。

その老人の処遇をめぐって両村の争いとなりました。坂井新田では、釈迦塚新田へ届けた以上は釈迦塚新田で面倒を見るべきだといい、釈迦塚新田では老人の置かれていた場所は、飛地ではあるけれど、そこは坂井新田往来道であるので坂井新田で面倒見るべきだと主張、老人を差し置いて両村の地論となってしまいました。大庄屋所へも訴えましたが、他に急用ありと称して役人を派遣してくれず、仕方なく現場で両村で小屋掛けして、医者にかけ番人をつけ、食事を与えて面倒を見ることになりました。

この老人中風らしく、言語身体とも不自由で、身元不明のまま八日後に現地で亡くなりました。実はこの老人、前日芝野村で見たという人もいて、どうも夜中にたらい回しにされたようです。 一人の老人をも養い得ず捨てなければならない人、そのことで争わなければならなかった両村。これも数年続いた凶作の為でした。

昔、老人が捨てられていた現場(現小古瀬江)

 


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