古文書講座105

古文書講座を再開します。文書は「嘉永4年刈谷田川洪水の際相手方乱妨一件」を取り上げます。

この一件は1851(嘉永4)年6月17日、梅雨の大雨で、刈谷田川が三林村枝郷津倉巻で破堤した。そのとき加勢に駆けつけた下勢(会津・桑名両預り領)の百姓たちが名主惣右衛門・百姓太兵衛宅に打ち毀しを働いた。両人宅は戸障子家財道具を川に投込まれ柱を残すのみという惨状となった。この後、1862(文久2)年尾崎村(現三条市)で破堤の際、新発田領中之島組では救援と称し出動した。この時「普請懸り」と「喧嘩係り」と手分けして行動したが双方自重して事なきを得たという。そして、翌1863(文久3)年、丸山興野に於いて下流農民の無法が、新発田藩側農民の下流の農民達への報復(死者15人)になったのである。この1851年の津倉巻、1862年の尾崎、1863年の丸山興野の事件はみな根が同じ所にある。

領民が天領対新発田領であること。破堤の被害が新発田領では上流であるので洪水は一過性であり比較的冠水が短時日で被害が少ない。一方下流の天領側は冠水が長引き農作物が全滅することの被害程度の落差が怒りと乱暴に表現された事件である。

次回から学習に移ります。

 

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