淺野家に伝わる兜

2001年6月23日に淺野家本家にて撮影した写真です。

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釈迦塚歴史考のトップページに掲載している兜の写真について4枚の写真を掲載します。兜は明珍の銘が入っていますが、淺野家の紋とは異なっているようです。
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淺野和夫 2015年9月6日

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古文書講座143

古文書講座143

刈谷田川洪水に付、津蔵巻乱妨一件

写真39

 

 

津蔵巻一件40

 

解読編

 同じく居宅を打ち壊された三林村(津倉巻)百姓太兵衛の訴状、実際に打ち壊しに参加したと見られる百姓の名前が挙げられている。

          溝口主膳正領分

              越後国蒲原郡三林村

                  百姓 太兵衛 申口

                           亥廿九才 

居宅打ち毀され候旨訴上げ候に付、始末御吟味御座候

 此段申し上げ候、私義高拾四石所持、家内拾壱人

暮らし、農業営み罷り在り候。然る処、当月十六日暁

より大雨にて、苅谷田川満水村内堤通り越

水に罷り成り候に付、土俵拾五俵、縄壱房、持参

致し候様名主惣右衛門より申し来り候に付、早速

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古文書講座142

古文書講座142

刈谷田川洪水に付、乱妨一件

写真38

津倉巻一件37

解読編

右与理助

 亥六月廿七日

   篠本彦次郎様御手代

   三浦正之助殿

溝口主膳正様御家来

   入江八郎右衛門殿

   大沼郡内殿

   黒川和賀六殿

前書御吟味の節私共罷り出承知仕り候以上。

         右村組頭 次助

 

 

 

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古文書講座141

古文書講座141

刈谷田川洪水に付、津蔵巻乱妨一件

写真37津倉巻一件36

 

解読編

猥に押し込み畳戸障子など持ち出し候間、再応

差し留候得共却って手向かい候に付、如何様の

怪我致すべくも計り難く余儀無く其の場迯去り

候旨、私出先へ相知らせ候に付早速罷り帰り

居宅見届け候処、差当り住居も相成らず

次第に付その段御領主御役場へ訴出候

義にて切れ所は人足土俵など差出丈夫に

〆切り候義に御座候

右御吟味に付相違申上げず候以上

 

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古文書講座140

古文書講座140

刈谷田川洪水に付、津蔵巻乱妨一件

写真36津倉巻一件36

解読編

猥に押し込み畳戸障子など持ち出し候間、再応

差し留候得共却って手向かい候に付、如何様の

怪我致すべくも計り難く、余儀無く其の場迯去り

候旨、私出先へ相知らせ候に付、早速罷り帰り

居宅見届け候処、差当り住居も相成らず

次第に付、その段御領主御役場へ訴出候

義にて、切れ所は人足土俵など差出丈夫に

〆切り候義に御座候。

右御吟味に付相違申上げず候以上。

 

 

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古文書講座139

古文書講座139

刈谷田川洪水に付、津蔵巻乱妨一件

写真35

津倉巻一件35解読編

在り候、折柄水下も鬼木村上組外八ヶ村の

もの共大勢罷り越し、〆切り方等閑のよし申し候

に付、手当て方の始末委細申談候義の処、

翌十七日暁七ッ時頃、私居宅へ大勢押し寄せ

家内の者共打ち驚き居宅立ち退き候処、その場に

居合い候市之助・半五郎・勘四郎・与四左衛門

孫作へ〆切り雑物差出し候様申し聞き候に付、

追々土俵など差出、〆きり方取り計い候間、早速

引取り候様右五人の者より申談候処、聞き入れず

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古文書講座138

古文書講座138

刈谷田川洪水に付、津蔵巻乱妨一件

写真34

津倉巻一件34

解読

拾五俵、縄壱房宛て持参致し候様、下男勝次

を以って村内へ申し触れ、早速場所へ罷り越し候処、追々

百姓共土俵縄など持ち参り候に付、指図に及び防ぎ

方取り計い罷り在り候処、同日暮れ六ッ時字津倉巻

堤切れ所に及び候に付、打驚き〆切り方精々

取り計い候へ共、何分急水の義、殊に土俵など

遣い果たし候に付、同夜四ッ半時頃、今町村其の外へ

〆切り雑物買い入れ方として差し遣わし、私義は

切れ所相離れず〆切り方精々手を尽くし罷り

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古文書講座137

古文書講座137

刈谷田川洪水に付津蔵巻乱妨一件

写真

津倉巻一件33解読

溝口主膳正領分

越後国蒲原郡三林村

名主惣左衛門煩に付代

悴与理助 亥廿六歳

居宅打ち毀され候旨訴上候に付、始末御吟味御座候。

此段申し上げ候、親惣右衛門義、高弐拾石所持、家内

七人暮し、名主役相勤め罷り在り候。然る処、当月十六日

暁より大雨にて苅谷田川満水、村内堤通り

越水に罷り成り候に付、百姓家壱軒に付土俵拾五俵

 

 

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釈迦堂御開扉

我が釈迦塚町の釈迦堂では7年毎に本尊御開扉の法要が行われます。去る17日、猛暑の中営まれました。釈迦堂本尊は釈迦如来立像です。わずか5.4㎝の金銅仏です。釈迦塚新田開基の浅野家の持仏です。浅野家は近世全期に亘って一回の転勤もなく肝煎・名主を勤めていました。維新後も戸長・区長として大正7年、釈迦塚を引き払うまで村長(むらおさ)として治めていました。

もともと浅野家は旧姓寺本といい、山城国深草の城主で、また村民はその家臣でした。足利義輝の暗殺、この時祖父寺本忠直が殉死。足利義昭の擁立のため奈良興福寺にいた覚慶(のちの将軍・義昭)を救出に向かった叔父・直次は重症を負い、武士の道を絶たれ出家、織田信長と三好・松永の対立で六条河原の戦で父・直勝が戦死、明智光秀による織田信長の暗殺など戦乱のたびに巻き込まれ、山城国深草の領地を失い、主従は近江に隠遁。浅野正八郎15歳のときに敦賀・高浜で溝口公にお目見え、その与力の将として加賀・大聖寺、を経て1598年溝口公に従い新発田へ入りました。

義昭を興福寺救出の功によって直次に与えられた覚慶の持仏が現在の釈迦堂の本尊と伝えられています。のちに直次(改め来源)が父の遺品と共に越後に送り届けてくれました。遠い昔、新羅から伝来の金銅仏と伝えられています。その御開扉は以前は浅野家で行ってきましたが、栃木転居後の昭和7年以後は釈迦塚村で7年毎に浅野家の人たちを招待して営んで来ました。

なお、釈迦堂は1636(寛永13)年に建立され、1781(天明元)年の再建、現在に至っています。

釈迦堂全景

 

 

 

1307歌碑と釈迦堂前日の飾り付け

HDC-508X/509 ExifImage Title当日朝

HDC-508X/509 ExifImage Title僧侶入堂

HDC-508X/509 ExifImage Title読経始まる。施食会というそうです。

HDC-508X/509 ExifImage Title神妙に読経を聴く

HDC-508X/509 ExifImage Title

 

 

 

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釈迦堂に歌麿歌碑完成

喜多川歌麿が筆禍により謹慎中、越天庵を訪ね滞在中に詠んだ狂歌の碑が 完成しました。御開扉にお披露目いたします。もちろん本人の書です

釈迦堂全景左側の門柱に彫り込みました。

1307歌碑と釈迦堂歌碑 ことば書き 越天庵うしの身もとへ杖曳きて歌にこころさし深きを

「釈迦塚や大恩教主狂歌仏 うた念仏の絶えぬ此里 歌麿」

1306うたまろ歌碑右側の釈迦如来は雲洞庵石龍師の書です

1307unntouann

 

 

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