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釈迦塚の祖先捜しから寺本家家筋まで(平成13(2001)年8月19日)
真島秀行
0.はじめ
祖父真島倉吉が釈迦塚出であることは父の生前から知っていました。
父志郎が亡くなり、墓を現住所近くに建て、納骨する少し前から、もう少し遡って祖先を調べてみようという気になり、曽祖父の除籍簿を取り寄せたところ、高曽祖父母、そのさらに 代前の父まで約200年程前までわかりました。
5年ほど前に新潟に行く機会があり、その前後にさらに遡る手立てがないものかと捜していたところ、「新潟県の地名(日本歴史地名大系15、平凡社)」の「釈迦塚新田」の記述 ら、釈迦塚区有文書がいくつか収録されている「見附市史編集資料第21、22集近世編 新発田藩民政史料1、2」を知りました。それを見附市図書館を介して購入し手元において み、その際ご紹介いただいた見附市文化財審議委員の淡路久雄氏に何度かお手紙でいろいろ教えていただいた結果、約300年位前の親族がわかりそうに思われました。また、毎年お盆の たりに、虫干しも兼ねて釈迦塚公会堂で浅野家古文書の公開をしていることも教えていただきました。それ以来毎年古文書を見に行っては祖先に関する新たな発見をしております。
浅野和夫氏が開設されたホーム・ページ用に以下では、釈迦塚で代々名主を世襲した浅野家の室町時代後半の祖先について調べたことを書いておきたいと思います。読んでいただけれ 、浅野家の家筋については少なくとも1510年頃以降は信用できるものだということをお分かりいただけると思います。原稿をHTMLファイルに変換してくださった浅野和夫氏に感謝致 ます。
なお、この文書は改訂して、釈迦塚開村400年記念誌に掲載していただく予定です。

1.浅野家家筋書(安政二(1855)年)

釈迦塚新田の名主浅野家の家筋についてはいくつかありますが、私が初めに読んだものは見附市史編集資料第21集近世編「新発田藩民政史料1」18.「文政七 1824)年中之島組家筋書上帳写」(安政二(1855)年)でした。その中で一番詳しいのが、三代目名主浅野次五右衛門が延宝二(1674)年八月に書いたとされるものでした。自分の高曽祖父 曽祖父、祖父、父、自分について書いています。所々略し所々補いながらほぼ全文を引用します。

一、曽祖父正八郎政久は山城國生まれ父は深草寺本兵庫頭忠直の三男寺本内膳正直壽、母は浅野長政之妹、(中略)天正九(1581)年十五歳になり、譜代の者 勢召連、若狭國へ罷出、高浜に於て  御太祖様(溝口秀勝公)へ初めて 御目見仕候節元服被 仰付、逸見駿河と申者之家名相立候様  御意有之,加藤氏之娘  御養女にて妻に被下 、(後略)

一、天正十一(1583)年  御太祖様(溝口秀勝公)越前國敦賀等へ御働之砌御先手被 仰付、同年四月四万四千石にて加賀國大聖寺城へ  御打入之節、御 仕能美郡之内に給知被下置、同十五(1587)年御出勢始追々 御陣に奉従、(後略)

一、慶長三(1598)年加州より 御当城へ 御入部之砌御供仕、同五(1600)年3月越後國不穏候間、御領内中之島郷は新発田城より程遠要害之地につき、大新田 井へ隠密に罷出之御もくろみ有之、同年6月正八郎儀手之者召連為押同所へ出張被 (後略)

一、同年6月正八郎父寺本内膳正直壽  権現様へ御奉公仕居候処、於関東五十八歳にして病死仕候節、母儀は同姓内蔵允方へ引取、浅野之家育介に罷越候に き、母を不忘様遺言有之、其頃より母方之苗字浅野に相成候御事、

一、本姓は藤原(後略)

一、元和三(1617)年2月16日正八郎政久五十一歳にして病死仕、法名了慶院禅定浄教と申候御事、

一、祖父浅野儀右衛門政邇儀、天正十四(1586)年加賀國大聖寺に生まれ、幼少之時正太郎と申、慶長三(1598)年2月十三歳で元服、(中略、常に正八郎政久と もに御太祖公のために働いており)、同(1600)年八月当國一揆之者三條之城責いたし  御後詰被成候砌、坂井に罷在、中之島・大面之押仕候御事

一、元和四(1618)年、(後略、新発田藩主溝口家2代宣勝の意向で坂井館を引き払い、譜代の者五十人二組として残す、其外は浪人、近村で百姓)

一、同年坂井之館引払候砌、猶中之島・大面之為御備同所上屋敷と申に不目立様住居可在旨蒙  御意、寛永十三(1636)年迄十九年間荒地開作分給知に被下 同所にて右五十人之者致扶持置候御事、

一、寛永十三(1636)年釈迦塚相立致開発につき、旧臣の内一組二十五人之もの百姓にしすえ、其砌上屋敷引取当村へ住居仕候得共、一組二十五人之家来其侭 持置、其頃片岡新左衛門様・山庄小左衛門様郡にて開作之事につき、年々中之島へ御越被成候間、村々開作の世話仕、御奉公申上居候御事、

一、明暦二(1656)年三月十五日儀右衛門政邇儀七十一歳にて病死、法名淨円と申候御事

一、父甚之丞政弘儀、元和元(1615)年坂井之館にて生まれ、幼年より病身にて正保三(1646)年六月三十二歳にて祖父より先に相果、法名淨意と申候御事、 BR>
一、私儀正保元(1644)年当村(釈迦塚)にて生まれ、幼名甚太郎と申、三才にて父母に別れ、祖父儀右衛門之養育にて成長仕候処、明暦二(1656)年十三歳之 祖父病死仕、然る処年若につき、(中略:乗っ取られそうになったが、)譜代之者  大殿様へ御訴訟仕、(中略)私儀家督被 仰付、元服いたし次五右衛門と改名、(中略)猶又同年九 中二十五人の百姓より御訴訟申上候処、願之適当村肝煎に被 仰付相勤罷在、畢竟御代々様 御厚恩を以是迄相続仕難有奉存候、以上

釈迦塚新田の開基で歴代名主であった浅野家は、元々寺本氏で浅野長政の妹が祖父正八郎政久の母であったことから浅野を名乗ったというのです。室町時代は山城國深草極楽寺城主で り、そのあたりを領していたことになっています。

2.浅野家系図・過去帳

浅野家の名主が代々書き綴ってきた系図・過去帳は何本かあるようですが、私が初めて古文書として拝見したものは、以下のようなものでした。

藤原鎌足之苗裔鎮守府将軍上野守藤原利仁之後胤尾張守光忠之嫡男山城守忠元が寺本氏の始祖であると記しています。その父尾張守光忠が尾張國寺本郷に在った故に寺本氏と称し、自 は山城國紀伊郡極楽寺城に住んでいたと書かれています。御小松帝之蒙勅命代々為嫡子は(略)と家紋のことも書いてあります。その後、忠国、直忠、忠定、忠之、忠克、忠秀が官名とと に一行ずつで書かれ、兵庫頭忠直に至ります。忠直の事跡として以下のように記されています。

大将軍義晴公及義輝公奉仕山城之國紀伊郡極楽寺之城主也永禄八(1565)年五月三好日向守長縁入道釣○同下野守政康松永弾正久秀同右衛佐久通等叛逆兵卒囲室町之館此時護衛之武士多 死焼御營而  大将軍義輝公御生害此時忠直従君殉死

その後過去帳形式で以下のように

了照院殿浄顯大基山         兵庫頭忠直 
永禄八(1565)年五月十九日

了光院殿浄功大居士         兵衛尉直勝
永禄十二(1569)年正月二日
三好山城入道逆乱此時将軍義昭公奉救而六条河原大合戦討死

了慶院禅定釈浄教          正八郎直久
元和三(1617)年二月十六日    永禄十二(1569)年三歳時離父後儀右衛門久政と改
従江州若州没落此時姓氏家紋を改云  直勝二男正八郎直久

政邇院釈淨円             儀右衛門政邇
明暦二(1656)年三月十五日     幼名正太郎後儀右衛門と改名直久之嫡子
釈迦塚新田開基

政弘院釈浄意             甚之丞政弘
正保三(1646)年六月二十五日   政邇之嫡子

政綱院釈浄與             甚太郎政綱
宝永元(1704)年十二月二十三日  後治五右衛門とまた次右衛門と改名政弘之嫡子

等々と歴代当主のことが書かれています。
上の家筋書との相違は、直久=久政の父が直壽ではなく直勝であるということです。
このことについて、現在は、実の父親は直勝で、育ての親が直壽、であると考えています。

3.大雲寺の寺本氏の墓と寺本氏略譜

京都市伏見区深草宝塔寺山町大雲寺に江戸時代の初めに寺本内蔵允忠吉が先祖供養のために建てた墓(壽塔)があります。この現存を知ったのは1999年6月でした。 の前月、同僚の室町時代を専門とする史学の先生に、「祖先の由緒書にこのようなことが載っているのだが、極楽寺城は本当にあったのだろうか、何か関連する文献があるだろうか」と 文政七(1824)年中之島組家筋書上帳写」(安政二(1855)年)のコピーをお見せしたのが切っ掛けで、「京都府紀伊郡誌」(京都府紀伊郡役所編纂、大正4年11月5日発行)の次の記述 見つけてくれました。

寶塔寺  極楽寺村の艮(うしとら)に在り、日蓮宗、本尊釈迦如来、古の極楽寺城にして、東峯を七面堂山と名づく、(中略)天正年中妙顕寺住職日尭弟子日銀再興せり(後略)
「虎石」  (前略)豊公伏見城中に在りしものなりと
「七面祠」 (略)
「三宅寄齋の墓」 (略)
「寺本氏の墓」 大雲院の北に在り、寺本内蔵允忠吉法名識本院学翁宗心居士、雍州府志云、寺本氏の墓深草山上に在り、織田信長足利義昭と六条河原に相戦ふ時に寺本氏信長公に ひて戦死す、斯人深草の人也云々

「京都府紀伊郡誌」(京都府紀伊郡役所編纂、大正4年11月5日発行)は京都大学近くの古本屋で見つけたことがあり高額だったのでそのときは買うのを断念したものでした。どこかでき んと読みたいと思っていたものでしたが、重大なことがやはり書いてあったのです。

さて「京都府紀伊郡誌」で引用された「雍州府志」は貞享三(1686)年9月に十巻(最終巻)が発行されており、そこには、以下のように記されています。

○寺本氏墓 在深草山上織田信長公與足利義昭公相戦於六条河原時寺本氏従信長公而戦死斯人深草極楽寺村人也故築塚於斯山

1999年6月7日かから10日まで京都に研究集会のために行っていたのですが、宝塔寺に電話し、大雲院が今は大雲寺となっていることを教えていただき、さらに大雲寺に電話連絡したところ 寺本氏の墓があり、朝5時からお参りできるということだったので、1999年6月9日早朝大雲寺を訪ね、寺本氏の墓をお参りし、ご住職の原上人に「大雲寺祖方寺本氏略譜」のコピーをいただ ながら寺本氏出の日随上人が大雲寺の開祖で、隣の隠居所の直勝院の開祖でもあるというお話を伺い、9時には研究集会場に行きその日の第一講演を致しました。冒頭にこの話を少ししまし が、父が亡くなり第一回目を忌引で休講とした講義の講義録出版の際に、父のことを後書きに少し書きたいと思いはじめたことでもあったということ、自分の専門の研究とどこまでわかる 追究するという姿勢は同じであるということを述べました。

4.大雲寺祖方寺本氏略譜

寺本氏は深草土豪四家(赤塚、藪、寺内、寺本)の一にして世々足利氏末まで隆盛なり 一度明智氏に属し豊臣氏向鉾して終に隠栖蟄居 芸の浅野候に仕子孫嗣継 全す大雲直勝院開祖実家たるの故を以て茲に写録す

という文で始まり、

孫兵衛 深草郷領主織田信長に属し天正三(1575)年六条河原戦死

|—吉太夫 深草郷領主 明智光秀に属し天正十(1582)年於山崎戦死

|—内蔵允 深草郷の内極楽寺村領主兄吉太夫城西山崎戦の後豊臣氏盛威を懼れ隠栖蟄居
   |   藤八入道と云天正十(1582)年当時藤八年八歳也寛永五(1628)年為冥福壽塔
   |   を宝塔寺境域の傍○に建以祖先追悼を○表す浅野候に任仕
   |—日随 父隠栖の後宝塔寺日銀上人の室に入得度順禮を重ね松井友干氏請い依て
   |    塔中西大坊に入(今の大雲)又地域を割て隠栖す是を直勝院と云
   |    (今の直勝)即開基
   |
   |—覚左ヱ門 紀州浅野候に仕○を芸州に随従子孫栄昌
      |
      |—日騰 伯父日随徒弟西大坊を住持し自ら法号大雲院を以て寺号と為す

という草山宝塔寺誌より簡単な系図が示され、

寺本前内蔵允忠吉壽塔   大五輪形

墓域東西十四間南北八間

識本院学翁宗心居士、
寛永五(1628)戊辰季九月初三寞

塔文に云

夫塔廟者毘慮遮那之尊形方徳円満之惣躰也
故願主刻彫之擬于覚果矣然則依斯功薫提妙
法之智釼拂無明之怨敵破生死之嶮城請涅槃
之厳都乃至法界倶蒙于利潤耳石塔建立主城
州深草住人亡父寺本孫兵衛捨命於六条合戦
挙名於京城田舎矣則先領極楽寺郷従六歳至
十一歳也示後遣于明智日向守等仕今安備両
国太守焉寺本内蔵允忠吉逆修也

真浄院玄幽日栄居士 芸州廣島士 
宝永八(1711)年辛卯二月五日七十歳
 寺本覚左ヱ門
            (草山宝塔寺誌より)

寺本内蔵允(武人)
 尼子十勇士の一族
寺本覚左ヱ門(同)
      (法華名家 掃苔録75頁)

といった内容が書いてあり、内蔵允の存在は確かなもののそれまで知っていた寺本氏の系図と直接合うものではありませんでした。しかし塔文は信頼できるものと思いました。

5.浅野家系図「本 家系」

大雲寺に現存する「寺本氏の墓」の話は、5月末に淡路久雄氏に文献のコピーと共にお手紙でお知らせし、1999年8月某日にまた釈迦塚を訪ねるつもりであることも えました。「由緒書に多少疑問がありましたが、この史料により信用できるようになりました」と即返事がありました。6月の「寺本氏の墓」の墓参後、「大雲寺祖方寺本氏略譜」のコピ をお送りしたところ折り返し、「慶長十一年か元和四年に書かれたとみられる『浅野家系図』(コピー不許可で筆写)『釈尊縁起』」が送られてきました。
古文書として見られるその浅野家系図「本 家系」でも、やはり、藤原鎌足から始まり、利仁を経て、尾張守光忠に至り、その嫡男山城守忠元が寺本氏の始祖であると記しています。 の父である尾張守光忠が尾張國寺本郷に在った故に寺本氏と称し、自らは山城國紀伊郡極楽寺城に住んでいたと書かれています。忠国、直忠、忠定、忠之、忠克、忠秀、を経て、兵庫頭忠 に至ります。忠直の事跡として以下のことが書かれています。

忠直 兵庫頭
仕大将軍義晴公及義輝公為極楽寺郷城主永禄八(1565)年五月三好義継其臣松永等謀反卒兵囲室町館此時護衛武士多闘死公亦躬出防戦遂被我祖忠直亦従公□□(多分、「殉死」が入る)< R>
忠直には息子が三人おり、直勝、直次、直壽といいました。

直勝 兵衛尉
紹父之業在城極楽寺郷永禄十二(1569)年三好山城入道等叛義昭公於六条河原大戦直勝在先鋒戮群敵竟于軍中年三十□□有二子長子内蔵允時年六歳次子直久時三歳□□□長浅野□□政改 □□

来源(注:入道来源、直次)
|—女子
|—日随 大雲院住侶
|—男子

直壽 内膳正 忠直之季子直勝弟
 天文十二(1543)年二月于極楽寺郷及壮有達兄直勝之意□被直勝臨六条之戦将危之時直壽馳入其陣中奮勇突戦終退散軍済之直勝向死其志聴為兄弟如□□閑居於江州赴戦場天正元(1573) □与武田信玄戦而不利直壽走而殿挑戦甚苦於燕爰
 □君入于浜松城労諸卒称酒井親岩等□人有功労次嘆直壽之与苦戦脱其着兜賜之同十(1582)年夏□□□
 君出在泉州明智光秀遽自丹州襲□織田君於京都本能寺君慮難潜走三州此時直壽従走
 慶長五(1600)年六月病而卒年五八

ここで系図としては記述が終わり、日付が完全には読めませんが、「午 八月十五日」で(入道来源)直次の署名があります。
直壽は慶長五(1600)庚子年に亡くなったこと、日随が大雲院住僧であることが書かれていますから、その後の「午」の付く年として、慶長十一(1606)丙午年か元和四(1618)戊午年で が、釈迦塚釈迦堂の釈尊が贈られてきたのは、まさに元和四(1618)戊午年であったと釈尊縁起に書いてあり、この年に書かれた系図である、と考えられます。
この系図や家筋書と「大雲寺祖方寺本氏略譜」では少し登場人物、年代の相違が見られその解釈が問題になりましたが概ね信用でき、1999年の7年に一度の釈迦堂ご開帳の年の成果とし はここまでとしました。

6.坂井砦蹟碑御撰文願草稿 安政四(1857)年未巳孟夏十五日

2000年8月某日の釈迦塚訪問の際、淡路久雄氏から、「坂井砦蹟碑御撰文願草稿」という安政四(1857)年未巳孟夏十五日に書かれた古文書の写しをワープロ入力 たものをいただきました。坂井砦・三條合戦などが主な内容で、家筋に関することが挿入され、それは大体冒頭に引用した浅野家家筋書(安政二(1855)年)と同じ内容ですが、大きく違 のは内蔵允に関する記述があることでした。

「永禄十二(1569)年三好山城入道等将軍源義昭に叛き、六条河原戦闘の時幕府に在りて先鋒の命を蒙り群敵を殺戮し大創を負ひ軍中に卒す。其子内蔵允吉忠時に六歳父の遺跡を継ぐ、 正元(1573)年将軍家源義昭織田信長と不和にて西国へ落剥、この頃吉忠幼弱にして勢い振はす志を得す、終に極楽寺を退城す、其子孫今に城州、摂州、芸藩等所々に住す」

この部分の記述は、寺本前内蔵允忠吉壽塔の塔文中の

「石塔建立主城
州深草住人亡父寺本孫兵衛捨命於六条合戦
挙名於京城田舎矣則先領極楽寺郷従六歳至
十一歳也示後遣于明智日向守等仕今安備両
国太守焉寺本内蔵允忠吉逆」

に合致しておりましたので、間違い無く適切な解釈ができるとそのとき確信しました。

7.寺本氏系図の信憑性

2000年8月某日に釈迦塚から戻って、やはり「大雲寺祖方寺本氏略譜」のもととなった「草山宝塔寺誌」の部分を見せていただこうと思い、宝塔寺ご住職に 草山宝塔寺誌」を見せて頂けないかとお手紙を書きました。それに対し、大雲寺誌、直勝寺誌の写しをいただきました。これにより日随、日騰の正確な没年、大体の生年、確実に伯 の関係であること、松井友干(注:豊臣秀吉家臣であった松井藤助)との関わりなどがよくわかりました。さらに、国立国会図書館で見つけた「日蓮宗大鑑(昭和56年1月本門寺刊行)」から確実な生年も分かりました。しかし、寺本氏の系図が宝塔寺にないものか再度お手紙するとご住職から「寺本家の先祖の記録は、深草宝塔寺には先日の寺誌しかなく、大雲寺原住職に えた時には聞き覚えていた程度の事で、書類によったものではなく系譜については全く分からない」、とのことでした。
そこで現在は以下のように考えています。
「坂井砦蹟碑御撰文願草稿 安政四(1857)年未巳孟夏十五日」と「寺本前内蔵允忠吉壽塔の塔文」の内蔵允に関する記述の一致から、「内蔵允が六歳から十一歳まで極楽寺城」を していたことは信用でき、その前後の明確な記述のある浅野家に伝わる系図とこの塔文を信じてよいと思います。
まず、寺本内蔵允忠吉(=吉忠)は浅野直久=久政=政久の3歳上の兄で、この兄弟の父寺本兵衛尉直勝が、塔文に出てくる寺本孫兵衛である、と断定して良いと思われます。直勝は、 禄十二(1569)年正月二日三好三人衆(三好長逸(縁)、三好政康、岩成友通)逆乱の時足利義昭公に奉じて六条河原大合戦で戦死、了光院殿浄功大居士。弟の直壽が天文十二(1543)年生 れで、間に直次もいますから、1540年くらいの生まれです。直勝亡き後は、直壽が、幼いこの兄弟の育ての親の役割を果たしたと考えられ、浅野家系図あるいは家筋書で明確にしたくないの 徳川時代に室町幕府の味方していたことをあまり表面に出したくなかったからだと思われます。この3兄弟の父寺本兵庫頭忠直は1510〜20年くらいの生まれと推測されますが、永禄八(1565) 五月十九日三好三人衆(三好長逸(縁)、三好政康、岩成友通)と松永弾正久秀の反乱の時室町之御所で将軍足利義輝公に従い殉死、了照院殿浄顯大基山。
塔文には、「明智日向守等に遣わされた」とあり、明智光秀が江州(滋賀県)坂本城主になったのが元亀二(1571)年、天正元(1573)年室町幕府滅亡し、天正三(1575)年に日向守に任 られ、天正十(1580)年に本能寺の変があったわけですが、内蔵允吉忠(忠吉)十一歳の次の年がちょうど天正三(1575)年で明智光秀が日向守に任じられた年と合致します。また、浅野の客 なる可能性について無理のないことが年表で読めると思います。
従って、忠直までは完全に信じられると思います。

京都の戦乱も治まった天正十八(1590)年に日銀が十八歳で旧妙顕寺を継ぎ、45年かけて再興し今日の宝塔寺の礎石を築いたのですが、その一翼を担ったのが、直勝院日随(1590〜1669、80 )、大雲院日騰(1622〜1704、83歳)という寺本氏出の伯甥でありました。日銀は森嶋家の出で、その兄で松井家を継いだ松井友干(〜1619.6)が慶長十二(1607.6)年に息子を亡くし西之大 (後の大雲院、大雲寺)に隠栖していた当時、西之大坊を一院として永続させたく思い、日銀の弟子の日随を請い受けて、継がせました。日随に支院として任されたのは寛永元(1624)年で が、それ以前(1607.6〜1619.6のある時点)から西之大坊(後の大雲院、大雲寺)の住侶となっており、そこまで書いてある浅野家系図は元和四(1618)戊午年に直次・入道来源に書いたも と判断できます。釈尊縁起に書いてあるように元和四(1618)戊午年に直次・入道来源の形見(現釈迦塚釈迦堂の釈尊や系図)を甥の直久=久政に贈ったのは、日随であろうと思われま 。そして、西之大坊(後に大雲院、さらに大雲寺)に対する寄進・寄附・援助を依頼したのではないでしょうか。これに対して、(直久=久政=政久は前年元和三(1617)になくなってい したから)実際に釈尊を受け取り寛永十三(1636)年丙子二月に釈迦堂を建立した息子で釈迦塚開基の儀右衛門はどのように返事したのかなど、浅野家に私信が保存されていれば事実関係が かるのではないかと思われます。日随からは、もちろん内蔵允に西之大坊(後に大雲院、さらに大雲寺)への寄進・寄附・援助の依頼があったはずで、それに応えて、元和五年(1619)年  晟安芸廣島四十二万石に移封に伴って芸州に行った内蔵允は、壽塔建立資金あるいは現物を贈ったのではないでしょうか。その後、日随は、甥を弟子とし大雲院日騰と命名し西之大坊を継 せ、自らは隠居し直勝院を開き、日騰が西之大坊に自らの院号大雲院を付けてと改称したのは慶安元(1648)年ということでした。直勝院という日随の院号は、六条河原で戦死した直勝に 来するに間違えないでしょう。浅野家名主の法名の院号は上に(第2節)見たようにまさに名前を用いています。

8.浅野長政家や明智光秀の動き等との関連

明智光秀の動きや浅野長政の動きと寺本氏の動きを羅列した表を作り上の解釈に無理がないことを確かめておきましょう。
浅野長政公伝(明治43(1910)年4月14日作成、没後300年に際し従五位下から従三位を贈られた時のもの。国立国会図書館蔵、マイクロフィルム 327-308)の記述を柱として、丸括弧で補 た幸長、長晟、明智光秀のことは、戦国人名事典コンパクト版(人物往来社)によります。
〔〕括弧で補ったのは、寺本氏関係のことです。

〔天文十二(1543)年 2月  寺本直壽生まれる。直勝はそれ以前の生まれ。〕
 天文十六(1547)年    近江國浅井郡小谷安井氏に生る。後尾張浅野に養はる。
〔永禄 八(1565)年 5月  忠直 義輝公とともに戦死〕
 永禄 九(1566)年(20歳)始めて秀吉に属し采地二十貫をうく。
〔永禄十二(1569)年正月  直勝 義昭公を奉じて六条河原において戦死〕
(元亀 二(1571)年、   明智光秀が江州(滋賀県)坂本城主)
 天正 元(1573)年(26歳)浅井征伐の功、采地百二十石をうく。
〔室町幕府滅亡:武田信玄(この年戦中病没)戦で直壽 家康軍で活躍〕
 天正 二(1574)年(27歳)近江國伊香郡持寺郷の内百二十石をうく。中國征伐佐用、上月両城先登の功。
(天正 三(1575)年    明智光秀 日向守に任じられる。)
〔内蔵允吉忠 明智の客となる、直壽・政久は浅野の客となる、直壽後徳川に仕える〕
(天正 四(1576)年(29歳)幸長出生)
 天正 七(1579)年(33歳)近江國北郡郷福永の内三百石をうく。丹生寺城、三木城攻陥の功。
 天正 八(1580)年(34歳)蜂濱城救援の功、知行高四千六百石をうく。
 天正 九(1581)年(35歳)播磨國楫東郡に於て千石加増。姫路城を築き鳥取城攻落に功あり、姫路城代となる。
〔4月溝口秀勝公が織田信長より若狭國に五千石賜り高浜城に在城、4月政久 父祖よりの世臣を大勢召具し高浜の溝口秀勝公のもとに来たり客となりて、公の加冠にて元服をなす〕
 天正十 (1582)年(36歳)近江の内に於て、三千六十石加増。
(本能寺の変、山崎合戦)
 天正十一(1583)年(37歳)江州、勢州の戦功、越前の戦佐久間玄蕃生捕の功。近江の國下甲賀、栗太両郡の内二千三百石をうく。京都所司代の事を掌る。
〔4月溝口秀勝公が加賀大聖寺へ四万四千石にて移封 政久に能美郡の内に采地賜る〕
 天正十二(1584)年(38歳)小牧山合戦に従ふ。
 天正十三(1585)年(39歳)根来寺征伐の先駈、佐々成政征伐に従ふ。五奉行の首位に置かれる。近江國高島郡の内に於て七千二百石加増。従五位下弾正少弼に任ぜらる。
 天正十四(1586)年(40歳)秀吉の為め使して家康と成を行ふ。長晟出生。
〔政久嫡子(後の浅野儀右衛門政邇)、天正十四(1586)年加賀國大聖寺にて出生。〕
 天正十五(1587)年(41歳)島津征伐、筑紫の事を奉行す。若狭一國を賜はり小濱城に居る。近江國志賀郡の内二千五百余石をうく。
 天正十六(1588)年(42歳)聚楽行幸の際前田玄以を扶けて事を掌る。肥後乱を定め制法を立つ。
 天正十七(1589)年(43歳)豊太閤朝廷親王以下へ金銀を献ず、公前田玄以等と之を掌る。
 天正十八(1590)年(44歳)皇室へ鶴、白鳥、各一を献納す。朝廷長政の労を思召れ勅作香りを賜ふ。小田原征伐、岩槻、鉢形、忍の諸城降陥の功あり。前田利家、石田三成と共に陸 の検地に従事す。
 天正十九(1591)年(45歳)陸奥國九戸の乱を定む。若狭國に於て六千五百石加増。
 文禄 元(1592)年(46歳)朝鮮征伐、太閤に従ふて名護屋に在り。
〔豊臣秀吉家臣であった松井藤助(後の松井友干)も名護屋に出陣〕
 文禄 二(1593)年(47歳)渡韓戦功、太閤への諫言。
 文禄 三(1594)年(48歳)甲斐へ入國。
 慶長 三(1598)年(52歳)太閤の遺嘱を受け家康以下と誓ひ、征韓軍召還のため博多に向ふ。
〔溝口秀勝公が越後國蒲原郡新発田城へご入部、政久父子大勢の世臣とともに従う〕
 慶長 四(1599)年(53歳)尾張熱田八劒宮改築造営をなす。
 慶長 五(1600)年(54歳)関が原の役。(10月幸長紀伊37万石うける)
〔溝口秀勝公より、政久父子坂井砦の守将に命ぜらる。大勢の世臣とともに従う。〕
〔直壽58歳病卒〕
 慶長十一(1606)年(60歳)常陸真壁郡に於て退隠の料として五萬石をうく。
 慶長十四(1609)年(63歳)近江國神崎郡に於て五千石をうく。
(慶長十五(1610)年 長晟 備中足守で二万四千石を給される)
 慶長十六(1611)年(65歳)下野國塩原温泉に於て死去。
(慶長十八(1613)年 8月25日幸長和歌山で死亡。長晟就封)
〔元和 四(1618)年 直次入道来源が家系図を書き、それとともに遺品が坂井砦の政久(既に死去)に届けられる、溝口宣勝公の命により坂井砦を廃す〕
(元和 五(1619)年 長晟安芸廣島42万石に移封)
〔寛永十三(1636)年 釈迦塚新田 開墾全就、移り住む〕

9.大雲寺の寺本氏略譜の疑問点について 

大雲寺祖方寺本氏略譜に書かれていることで、系譜は信用しなくてよいとして、いくつか確かめたいことが残ります。略譜の中に○の部分が初めからあり、何かを したはずなので、宝塔寺には、必ず何か他に資料があるはずです。
冒頭の「寺本氏は深草土豪四家(赤塚、藪、寺内、寺本)の一にして世々足利氏末まで隆盛なり」というのは何か文献があるのでしょうか。内蔵允の兄とされる「吉太夫 深草郷領主 明知光秀に属し天正十(1582)年於山崎戦死」は想像上の人物と考えらますが、それでよいのかどうか、この人は深草郷全体の領主となっています。一族の誰かでしょうか。
「内蔵允 深草郷の内極楽寺村領主兄吉太夫城西山崎戦の後豊臣氏盛威を懼れ隠世蟄居藤八入道と云天正十(1582)年当時藤八年八歳也寛永五(1628)年為冥福壽塔を宝塔寺境域の傍らに 以祖先追悼を○表す浅野候に任仕」は、亡くなった年が刻まれていると宝塔寺誌に書いてありそちらを信用すると、建立の年を刻んだとするのは間違えになります。
「日随 父隠栖の後・・・」の父はここでは内蔵允、しかし浅野家系図では直次。直次亡き後養子にしたとも考えられます。
「覚左ヱ門 紀州浅野候に仕?を芸州に随従子孫栄昌」は内蔵允の子となっていますが、そのままでかまわないでしょう。1619年に浅野長晟候は芸州に移ります。その前から仕えている 。大雲寺にある墓の主、真浄院玄幽日栄居士 芸州廣島士 宝永八(1711)年辛卯2月5日70歳 寺本覚左ヱ門 とは違います。日騰(1622〜1704、83歳)の父になれる人です。
「日騰 伯父日随徒弟・・・」の父は覚左ヱ門。このままでよいですが覚左ヱ門は内蔵允の息子か直次の息子日随の弟の子のはずです。

10.「雍州府志」(貞享三(1686)年9月発刊)の記述に対する疑問点

先に引用したように、「雍州府志」、「寺本氏の墓」の主の寺本氏は織田信長公と足利義昭公が六条河原に於いて戦ったとき信長公に従い戦死した深草極楽寺 の人である、ということになっていますが、上で見たように、六条河原の戦は永禄十二(1569)年正月2日三好三人衆が足利義昭公に逆乱の時のもので、直勝は足利義昭を奉じて戦ったので り、「雍州府志」の記述とは異なります。寺本家や釈迦塚浅野家では祖先が室町幕府の味方していたことをあまり表面に出したくなかったらしく、塔文からはどちらに味方したかなど からぬようになっています。それにも拘らず、なぜ織田信長と足利義昭との戦とされ、織田方とされたのでしょうか。信長の家臣の明智光秀に仕えた、浅野家に関わりあるいは仕えていた いうことが後の貞享年間には誤解される大きな理由になったということでしょうか。

11.おわりに

1世代遡る毎に祖先の数は2倍になり、例えば約300年前 12世代前では、2の12乗で4096人、約500年前20世代前では、2の20乗で1048576人の祖先がおり、そこから自分に至る べての人は2097151人という多さです。現在の自分を生み出してくれた多くの方々に感謝をして拙文を終えることとします。(以上)

付録。

1の引用文の現代訳例

一、曽祖父の正八郎政久は山城國深草(現京都伏見区深草)でうまれ、父は寺本兵庫頭忠直の三男で寺本内膳正直壽であり、母は浅野長政の妹である。(中略)天正九(15 1)年15歳になり、代々家に仕えてきた者を大勢召し連れ、若狭國へまかり出て、高浜において 御太祖様(溝口秀勝公)へ初めてお目にかかったとき、元服させていただき、逸見駿河と う者の家名をつぐようおっしゃられ、加藤氏の娘を御太祖様のご養女されてから正八郎政久の妻にくだされましたこと。

一、 天正十一(1583)年  御太祖様(溝口秀勝公)が越前國敦賀等の戦に出られたとき、先駆けをするようおっしゃられましたこと。同年四月四万四千石にて加賀國大聖寺城へ お入りに られたとき、お供し能美郡の内に土地を下されたこと。同十五(1587)年の出兵をはじめとして何度も陣に加わりに御太祖様のために働きましたこと(後略)

一、 慶長三(1598)年加州(加賀國)より 新発田当城へ お入りになられる際、お供し、同五(1600)年3月越後國が不穏な状態のとき、領内の中之島郷は新発田城より然程遠くない要害の であり、新田ができた坂井へ隠密としてまかり出て前線を守るというもくろみがあって、同年6月正八郎は手の者を召し連れ同所を押さえるために出張しましたこと (後略)

一、 同年6月正八郎の父寺本内膳正直壽が、  権現様へ御奉公中に、関東で58歳にして病死したこと。母は同姓内蔵允方へ引き取られ、浅野の家で余生をおくることになり、母を忘れぬ うに遺言があって、その頃より母方の苗字浅野になりましたこと、

一、 本姓は藤原(後略)

一、 元和三(1617)年2月16日に正八郎政久は51歳で病死し、法名を了慶院禅定浄教と申しますこと、

一、 祖父浅野儀右衛門政邇は、天正十四(1586)年加賀國大聖寺に生まれ、幼少の時は正太郎と申しました。慶長三(1598)年2月13歳で元服し、(中略、常に正八郎政久とともに御太祖公 ために働いており)、同(1600)年八月越後國一揆のとき三條城での責務を果たし 太祖様の後詰を申し付けられたとき、坂井にまかり出て、中之島・大面の押さえの役割を果たしましたこ

一、 元和四(1618)年、(後略、新発田藩主溝口家2代宣勝の意向で坂井館を引き払い、譜代の者50人を2組として残し、其外は浪人、近村で百姓になりましたこと)

一、 同年坂井の館を引払うことになったとき、なお中之島・大面の警備のため同所を上屋敷とし、目立たぬよう住居を構えているよう指示があり、寛永十三(1636)年まで19年間荒地開作 の土地を給わり、同所にて右50人の者を扶持していましたこと、

一、 寛永十三(1636)年、新田の開発がおわり釈迦塚として成立し、旧臣の内一組25人の者を百姓にしすえ、そのとき、(坂井の)上屋敷を引取り当村(釈迦塚)へ住居を立て移り住み、 組25人の家来はそまま扶持しておきましたこと、その頃片岡新左衛門様・山庄小左衛門様が郡にて新田開発のことについて、毎年中之島へおこしになられた際、村々開作のお世話をし、 奉公申し上げましたこと、

一、 明暦二(1656)年3月15日、儀右衛門政邇は71歳で病死、法名を淨円と申しますこと、

一、 父の甚之丞政弘は、元和元(1615)年、坂井の館で生まれ、幼い頃から病身で正保三(1646)年6月32歳で祖父より先に亡くなり、法名を淨意と申しますこと、

一、 私は正保元(1644)年、当村(釈迦塚)に生まれ、幼名を甚太郎と申し、3才で父母に別れ、祖父の儀右衛門に養い育てられ成長しましたが、明暦二(1656)年13歳の時、祖父も病死 、その際私が年が若いということで、(中略:乗っ取られそうになったが、)譜代の者が、大殿様へ訴訟を申上げ、(中略)私が家督を継ぐよう仰られ、元服し次五右衛門と改名したとこ 、(中略:いろいろな嫌がらせを受けたが)なおまた同年9月中に25人の百姓より訴訟を申し上げましたところ、願いが適って、当村の肝煎にしていただき、勤めに励みまして、結局代々 お殿様のご厚恩をにより、これまで相続してまいりましたことはまことに有難いことと存知あげておりますこと、以上

2の引用文の現代語訳例

兵庫頭忠直
大将軍義晴公と義輝公に仕え奉り、山城之國紀伊郡極楽寺之城主であった。永禄八(1565)年5月に三好日向守長縁入道釣○同下野守政康松永弾正久秀同右衛佐久通等が、叛逆し兵を出して室 の館を囲んだ時、護衛の武士が多く戦死し館も焼けたが、大将軍義輝公には自害され、この時忠直は殉死しました。

兵衛尉直勝
三好山城入道が逆乱のとき将軍義昭公を奉じて六条河原大合戦で討死しました。

正八郎直久
江州より若州へ落ちのびていったころ姓氏家紋を改めたといいます。

3に引用した文の現代語訳例

「雍州府志」
○寺本氏墓 深草山上にあり。織田信長公と足利義昭公とが六条河原に於いて戦った時、寺本氏は信長公に従って戦死した。この人は深草極楽寺村人であったのでこの山に塚を築いた。

9に対する注釈

‘略譜’の系図を考えた人は、寺本氏の墓の塔文、大雲院誌、直勝院誌に語られていること、を使っていると思います。
寺本氏の墓の塔文を考えた人は、‘孫兵衛’とよばれている人の孫、内蔵允忠吉の子供、日随であるとしてよいはずです(浅野家系図では直次の子で、内蔵允忠吉の養子となった可能性が ります)。(孫が生まれるととおじいさんが孫兵衛という名前になることは、釈迦塚の宗門改帳の中にも例があります。)直勝という実名を使わず、家族の系統を表す表現にしたと解釈し らよいのではないでしょうか。
孫兵衛
|—内蔵允忠吉
   |—日随
という親子関係があると設定できます。また、大雲院誌にあるように、日随と日騰は伯父と甥の関係にあることから、
孫兵衛
|—内蔵允忠吉
   |—日随
   |—日随の弟
      |—日騰
と設定でき、‘日随の弟’の名前を大雲寺に墓のある寺本覚左ヱ門の名が世襲されていると設定すると、
孫兵衛
|—内蔵允忠吉
   |—日随
   |—覚左ヱ門
      |—日騰
というところまではできあがります。日随の日銀、松井友干との関わりも書けます。明智光秀に組しただろうことも、塔文の「示後遣于明智日向守等」からわかります。しかし、吉太夫の 在は、‘寺本氏の墓の塔文、大雲院誌、直勝院誌’の3つからは出ませんし、内蔵允忠吉の‘藤八入道といって、天正十年当時藤八年八歳也’ということは出てきません。何か他の文書か 伝えメモがないと書けません。けれども、「明智日向守等に遣され」というところで、「遣した人」を兄と設定したのかもしれません。この時代は、一族を分散させて、生き残りを図った 代で、直勝亡き後、寺本一族は、直次は一族の総帥として、直壽は徳川方、内蔵允忠吉は明智方、浅野方、直久は、溝口方と別れて仕えたということでしょうか。明智方についてもしかし ら系図上抹殺された二男が本当はあるかもしれません。(直勝は嫡子、直次は釈尊縁起では三男、系図上は二男、直壽は系図で季子、家筋書きでは三男。)播磨の真島一族も一族を分散し 敵味方に分かれ生き残りを図ったと、黒田義隆著「間島氏について」に書いてありました。
なお、内蔵允忠吉の年は浅野家家系図を信用すると十八歳のはずで十歳違います。深草極楽寺郷を領している6歳から11歳の間に入道藤八としたのはよく分かりません。
「釈迦塚の祖先捜しから寺本家家筋まで」補遺 平成14(2002)年8月17日