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釈迦塚歴史考トピックス
釈迦塚公会堂での古文書虫干
2002年08月17日
釈迦塚町歴史略年表
2002/3/5 淡路久雄氏
モーフィング映像(遊びです)
(モデム56K用)(xDSL 100K用)
古文書入門(寺本家からの書状)
『与茂七実伝』登場人物の実在は
釈迦塚公会堂での古文書虫干
2001年08月17日
十三代浅野虎三郎伝
尼子十勇士
坂井砦誌(浅野虎三郎)
大雲寺の紹介(すばらしい境内)
大雲寺紀行
諏訪神社で火事 (大竹与茂七で当ホームページで取り上げている)
  新発田の総鎮守が全焼した。2001年11月5日未明、新発田市の諏訪神社で本殿などが全焼する火事があった。新発田市の指定文化財も焼けてなくなったものとみられている。 火事があったのは新発田市諏訪町の諏訪神社で、5日午前2時半頃、火が出ているのを新聞配達員が見つけた。およそ1時間後に消し止められたが、木造の本殿など3棟、233平方メートルを全焼した。境内の別の棟には宮司の家族がいたが、ケガはなかった。 諏訪神社はおよそ250年前、新発田藩の7代目藩主が総鎮守(住民を守り、災害を鎮めるための神社)として建てたもの。神社の人によると、市の文化財に指定されている絵馬など13点が全て焼けてなくなったという。警察と消防では、現場が火の気がないことから、不審火の可能性もあるとみて原因を調べている。
諏訪神社の一隅に五十志霊神社がある。そして新発田観光協会が以下の文面の看板を出している。

五十志霊神社
六月二、三日例祭
はじめ宗源社といったが明治維新後てんのかみちのかみ天神地祗と五十志霊神(溝口氏ゆかりの霊)を合祀して五十志霊神社と称した、与茂七とも霊神の一人であるという。与茂七は新発田藩中之嶋組の名主で宝永元年信濃川および支流の堤防が破堤したときその防御工事を庄屋義兵衛茂左衛門に要請したか受入れられなかったので藩の御用材を無断て伐採して堤防を修理した。その後凶作の救米金や年貢米取立のことなどで庄屋名主間の紛争となり、農民を代表した与茂七等によって新発田藩へ訴えられた。裁きの結果は「組中、党をくんで庄屋へ難題を申しかけた首謀者」の罪で、与茂七他四人の名主は斬罪に処せられた。正徳三年(一、七一三)六月二日のことである。一身を犠牲にして村民のために尽した与茂七の行動は後世にまでたたえられている。
新発田市観光協会
義民大竹与茂七の大きな石碑がやはりこの新発田の諏訪神社には建立されている。私(浅野和夫)もこの石碑建立の時には出席させていただきました。
この碑の由来
 平成三年十二月二十三日、半世紀ぶりの与茂七演劇の成功を記念し、今年の与茂七、二八0年祭を祝してこの碑を建てる事にしました。義民大竹与茂七は新発田領南蒲原郡中ノ島の名主ですが農民に味方し、農民に代わって大勢の名主と一緒に役人と結託した横暴な庄屋と交渉し、遂に裁判となり、歯を一本残らず抜くという残忍な拷問にも屈しなかったが、逆に百姓一揆を先導したという濡れ衣を着せられて首を刎ねられ獄門にさらされました。 併し藩主は後でその行き過ぎを反省し、名誉恢復をはかり、藩の功臣を祀る五十志霊神に合わせ祀りました。与茂七を慕う住民は、この社を初めから与茂七神社として崇敬礼拝しています。 この碑の仙台石は役二百年前、仙台の伊達藩から新発田藩に送られたものと伝えられています。天明の大飢饉は全国で仙台領が最もひどく十五万人の餓死者を出したと言われています。新発田藩領も飢饉は免れませんでしたが、特に新発田から仙台に千俵の救援米を贈ったそのお礼返しであったといわれています。 贈られた仙台石の一枚は昭和天皇在位六〇年奉祝記念碑として、今境内社務所横に建立されています。 この度残りの一枚を義民碑にとお願いしたら、畠山宮司は、米と石と藩と与茂七を結ぶ奇しき因縁に感動され、悦んで会に寄贈してくださいました。
宮司を初め、会内外の皆様の御協力に心からお礼を申し上げます。

  一九九三年六月二日
      新発田与茂七を偲ぶ会

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