各種コンテンツ
映像(ビデオ)資料集
浅原氏講演(1999)
真島氏講演(1999)
釈迦堂法要(1999)
深草大雲寺道程
深草大雲寺境内
大雲寺原御住職
写真資料集
十代浅野吉郎右衛門の写真(幕末)
発見浅野家の写真(明治43,42年)
釈迦堂御門建立(昭和7年5月)
釈迦堂修復の写真(昭和39年6月)
御開帳(1992)、御開帳(1999)
浅野家の人々写真集(明治大正昭和初期)
村民の写真
大雲寺と寺本氏五輪塔>
深草と宝塔寺周辺
等々
文献
トピックス
釈迦塚公会堂での古文書虫干
『与茂七実伝』登場人物の実在は
十三代浅野虎三郎伝
尼子十勇士
大雲寺紀行
大雲寺茶室の紹介
写真資料集 ビジュアルな資料として、映像資料とこの写真資料があります。どちらも今後増えていきますが、この写真資料は明治以前1枚をふくめ明治大正昭和の浅野家を中心とした一族の写真が含まれています。また、釈迦塚のご開帳の資料にも対応しております。
映像資料集私のビデオカメラ暦は比較的はそこそこ古く1984年からです。しかし、1992年の釈迦塚の御開帳にはビデオカメラはおろかスチールのカメラすらもっていってはおりません。つまり、私としてはその時点までは釈迦塚の歴史についてはあまり興味が無かったわけです。ただ、個人的には1992年の参加は大変意義深いものでした。集会場でいろいろな歴史文化財を見るのも別に初めてでもなかったのでしたが、新発田の「大竹与茂七を偲ぶ会」のメンバーとの接触が浅野家と釈迦塚の歴史に興味を持たせる一因となりました。七年後までに少しずつ入手できた資料に目をとおしておきました。また、VTRで収録をしておこうと思っておりました。そして1999年は画期的な年となりました。一つは浅原氏の研究でした。九代の浅野儀衛門が、あの世界的に有名は喜多川歌麿と交流があり、歌麿は釈迦塚まできたという事実についての講演は驚嘆のかぎりでした。さらに、お茶の水女子大の真島秀行教授の講演は歴代の浅野家の誰もが聞いていて探しもいたした伝説化されていた寺本忠吉(初代浅野政久の兄)の墓を京都伏見深草大雲寺で発見されたことです。それらについて今後はできるだけビデオに収録していきたいと思い、幾つかも出来事を収録いたしました。
(注意)ビデオによる映像を編集しmpeg化してありますが、いずれの映像もおおきいので、約18MBくらいの単位で分割してあります。従いまして、ADSLなどのブロードバンドに対応していない通信環境ではダウンロードに多大な時間がかかり、見ることは事実上不可能であろうと思われます。
文献資料多くの文献がありますが現在収録している物で内容を発表できるものと今だ公開にいたっていない物とがあります。今後、大量の(約500点)の狂歌短冊を中心とした文化財や3000頁にも上る積善堂(丹羽悳)の遺文などのほか、各種掛け軸などの公開もできればやっていきたいと思っております。
家系図は検証をしていかなければ事実とは限りません。良い例が、「金銅霊像略縁記付属系図」です。これは神代の昔からの系図であり、信じることは当然出来ません。何れも書いた人間の近くになれば事実でありましょう。この点についての寺本氏の研究をされている真島教授の論で西暦1500年代全般までは検証を進めることができました。何れにしろ、人類としてみたらシナントロプスや、ピテカントロプスまた、アウストラピテクスまで到れば500万年の系譜であり、全ての人類は兄弟であるはずです。ただ、現在人類が45億人いるとして、平均寿命が平均65年だとすれば、倍の130年前の人についての知識はたとえ身内であっても殆んど知らないのが大多数でしょう。だから、わずかな時間と空間をこの惑星から俺は借りたぞ!っという証が家系であろうかと思います。そして、恥ずかしながら少しでも俺は凄い一族の生まれだと言いたいのでしょう。だからその心理の探索だけでも愉快なんです。
三代浅野次五右衛門の由緒書三代目名主浅野次五右衛門が延宝二(1674)年八月に書いたとされるものでした。自分の高曽祖父、曽祖父、祖父、父、自分について書いています。また、若くして父をなくし、旧家臣の村民一同に助けられた話などが切々と書いてあります。この文面は「インターネット古文書講座」の教材として取り上げてあります。
狂歌短冊類
九代浅野儀右衛門は狂歌名越天庵雪人といい江戸時代最高の浮世絵師である喜多川歌麿や蜀山人、川井物惣などとの交流があった。これらのことの発見やその文献の分析には淺原勇吉氏や淡路久雄氏の論文(当ホームページ掲載)を見ていただければわかります。
(注意)短冊類の掲載は現在行っておりません。