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淺原雄吉氏の研究喜多川歌麿と越天庵(九代浅野儀右衛門)の研究

淺原さんとの出会いはあまりにも劇的だったと淡路久雄さんは言う。私も奇跡か、それとも、人知を超えた歴史のなせる技なのか。以下は淡路さんの話です。

突然 1998年10月中旬のある日、東京の国際浮世絵学会の会員で淺原という人から電話があった。用件は、あの有名な浮世絵師の歌麿が当釈迦塚へ来た、という、聞いたこともない、青天の霹靂と奇想天外を混ぜたような話であった。」短冊と狂歌集ともに「越天庵雪人」という俳号である、そういう人は釈迦塚にいなかったか。これが電話の内容であった。確かに、越天庵は、釈迦塚新田名主浅野家九代目当主であり、和歌をたしなんでいたというのはわかっていたので、後日資料を送る約束をした。
奇跡 釈迦塚町にある、釈迦堂の本尊を収めた御厨子の扉が壊れたので、仏壇屋へ修理にだしていたのが直ってきた。その仏像を収めようとして作業中、浅野家の位牌とは違う家紋の位牌があるのに気がついた。挨を払ってよく見ると「俳諧歌場壽誉福阿真顔居士、文政十二年六月六日終焉」とあった。真顔居士とは、江戸の狂歌の宗匠「鹿都部真顔」のことであった。真顔は、太田蜀山人(狂歌名四方赤良)が寛政の改革で筆を折ると、蜀山人の四方派を率いた人で、位牌発見は、淺原氏の電話があった後でなかったら、永久に気がつかなかったであろう奇跡であった。
発見 そして、十五代の浅野本家から大田記念美術館で発見された歌麿の短冊と同様の短冊が発見された。
釈迦塚と歌麿(1999/08/17:講演) 釈迦塚では7年毎に釈迦堂で先祖の法要と本尊の御開帳がおこなわれる。その後、村の代表の方々と浅野家の縁者との「なおらい」がおこなわれるが、この年は2つの画期的な発見があった。1つは真島秀行御茶ノ水女子大教授による、浅野家の元である寺本家の墓の発見である。今一つが九代儀右衛門(越天庵)と歌麿のつながりについての淺原雄吉氏の発見である。そして、この日、両氏から講演をお願いした。ここでは淺原氏の講演の内容を完全に文章に置き換えました。( youtube動画)

歌麿と越後に関する調査報告1999年4月浮世絵学会誌論文 第131号の学会誌に掲載された論文は釈迦塚での講演がそのバックグランドであることがよくわかる。氏の論文は次の140号から比べると短い。
歌麿と越後に関する調査報告(続)2001年10月浮世絵学会誌論文 この論文は400字詰め原稿用紙で約40枚にのぼり写真の資料も15点を数えている。時代背景や師匠と弟子との関係と分析は単に科学的であるというだけでなく、心うたれ文芸作品のようにすら感じるのは私だけだろうか。ことらでは取り上げられていないが、越天庵は歌麿や真顔の亡き後も八十歳で他界するまで、師匠を思い、いくつもの作品で真顔をしのんでいたのだった。私はこの「真顔と越天庵の関係」を読んで、若い日に愛読した倉田百三の「出家とその弟子」を思い出してしまった。とても大きいものなので、以下のようにして扱ってみる。(数字はページ番号でそちらにジャンプする。) 浅野和夫
  • 越天庵狂歌資料の概要( 1 2 3 )
  • 真顔と越天庵の関係( 3 4 5 6 7 8 )
  • 歌麿狂歌短冊の出現( 8 9 )
  • 扇三巴紋の推移と歌麿との関係( 9 10 11 12 )
  • 注記 (12 13 14 15 )
  • 参考文献及び資料提供 ( 15 )

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