戻る
歴史資料歴史を研究すると多くの資料が必要となってくる「有ればいいな」と思えそうなものを用意した。特に最初の「推古〜現代の・・・・」と「十干十二支六十干支一覧表」はどは印刷しておくとよいと思う。また隣には「溝口氏」と「浅野(長政)氏」についての基礎知識を追加しておいた。

溝口氏


掻摺菱
(清和源氏武田氏流)

釈迦塚浅野家に残された溝口家の系図

 清和源氏武田氏流逸見義重の後裔と伝える。義重は承久の変の功で美濃国大桑郷を拝領したという。この義重の子孫が尾張国溝口に溝口を称したという。
 しかし、『溝口家譜』には逸見義政が常陸溝口村を賜り、戦国末期の勝政のとき、近江・美濃に移ったとするなど混乱がみられる。史料的には、尾張溝口氏は応永元年(1394)からみえ、溝口富之助が常安寺を再建したと伝える。同氏の拠城は豊場にあり、子孫は尾だ信長に仕えている。しかし、名字の地といわれる溝口と豊場では十数キロメートルも離れており、溝口氏の出自は不明というほかはない。
 ひとつの可能性として、遅くとも南北朝期から豊場に拠っていた溝口氏が織田氏に臣従したあと、その一族が、信長の重臣となった丹羽長秀の麾下に入ったとも考えられる。溝口氏が飛躍的に発展するのは秀勝の代からである。
 秀勝は幼事から丹羽長秀に仕え、天正九年(1581)には若狭高浜城主逸見昌経の遺領八千石のうち五千石を信長から与えられた。この逸見氏は、代々駿河守を称し、溝口氏と同祖で、若狭守護武田氏の奉行を務めた。若狭武田氏は、信長の越前国進出によって没落したが、逸見昌経はそれ以前より信長の与力となって各地を転戦。が病死により、逸見氏は断絶、同族の秀勝が高浜城主とされたのである。
 同十一年、羽柴秀吉が越前北の庄の柴田勝家を滅ぼしたあと、丹羽長秀は秀吉から越前一国と加賀の江沼・能美二郡拝領し、このうち加賀江沼郡を戦功のあった秀勝に分与した。結果、秀勝は大聖寺城に拠り四万四千石の大名となった。
 天正十三年、丹羽長秀が没し堀秀政がその遺跡を継ぐと、秀勝は秀政の与力とされた。慶長三年(1598)、秀政後嗣秀治の越後国春日山城四十五万石への移封に伴い、同国蒲原郡に移封され、録高は六万石に加増された。秀勝は同郡新発田に新たに築城を開始。新発田は新発田重家の故地で、築城はその古城を取り入れたものであった。
 慶長五年の会津征伐に際して、秀勝は家康の命を受けて先陣を務めている。つづく関ヶ原の合戦でも徳川方に属してその地位を確実なものとし、子孫は新発田藩主として明治を迎えた。

■略系図

浅野氏

丸に違い鷹の羽(清和源氏土岐氏流)

 浅野氏は、清和源氏頼光流で土岐氏の支流といわれている。その発祥については、『寛政重修諸家譜』では尾張国丹羽郡浅野村とするが、別に、美濃国土岐郡浅野村という説もあり、美濃氏の支流という点からすると、美濃国の可能性が高いように思われる。
 たとえば『尊卑分脈』では、土岐光信の曽孫の光時という人物に註して「浅野二郎」としているのである。この光時が浅野氏の初代に考えられている。しかし、頼隆から長勝のあいだがどのようにつながるのかは不明である。また、浅野長政が若狭小浜城主時代の棟札には「浅野弾正少弼浅野長吉」とあり、天正二十年(1592)当時の長政が、「藤原」を称していたことが知られる。
 浅野長勝は織田信長に仕え弓衆となっており、男子がなかったため、安井弥兵衛重継の子を養子に迎え、これに自分の娘を嫁がせている。その養子がすなわち長政である。もっとも。最初から長政を名乗っていたわけではなく、はじめの名乗りは長吉であった。
 また、長勝は杉原家利女を後妻とし、その妹の娘に禰がいた。禰は、杉原一族の定利を父とするが、長勝の養女となっていた。宿禰は秀吉の室に納まり、長政は秀吉と相婿の仲であった。 長政は養父のあとを継いで、信長の弓衆であったが、やがて信長の命により秀吉に仕え、天正元年(1573)、秀吉から百二十石を与えられ、次第に加増され、同十年には近江坂本城主、同十五年には若狭小浜城主、文禄二年(1593)には甲斐府中城主二十二万石にまでなっている。
 秀吉晩年には、五奉行のひとりとして活躍しており、関ヶ原の合戦には東軍に属している。
 長政の長男が幸長で、関ヶ原のときは東軍に属し、戦後その恩賞として紀伊一国三十七万六千五百石を与えられ、和歌山城主となった。子孫は、福島正則が改易されたあとを受けて広島四十二万六千石を領して広島城主となる。
 元禄忠臣蔵事件で有名な赤穂浅野家は一族になる。

■略系図